否定することについて書いてみた

仕事柄、他者に否定的なフィードバックを送ることが多い(?)

過去に教員志望の学生に対して「教員免許取って良い授業できたら、教員たちは苦労しないから」と言ったことがある。仕事柄、教員採用試験の問題を毎年解くが「これで9割以上取れないなら、教員になってはいけない」と今とは別のアカウントでツイートしたら、反撃を多数喰らったこともある(とはいえ僕の周りは満点近い人ばかりだった)。

そういえば、昔、研究会で「あなたの頭脳は幼稚園児未満?」とか、20分の研究発表で「あなたはその程度の哀れな人格」と言われたこともある。なるべく、今の学生には言わないようにしているが、当時の諸先輩の気持ちがわからないでもない(でも、その院生たちは結局、アカデミアから去っていったけどね)。

いつ頃からか。そんな否定的なコメントをしないようにしようと思ったことがある。ふとした瞬間である。なるべく良いところを見つけようと思うようになった。否定的なコメントは生産性がない。全くない。否定的なコメントをするなら、代替案を出しましょう。出せないで「自分で考えろ」というなら、最初からコメントしないことだ。

先日、早稲田大の先生が「なるべく研究の良いところを見て、肯定的なコメントをしましょう」とブログに書いていた。そうなんだよ。そういうコメントの方が、結局、研究はできるようになっていく。教育(研究指導も含む)は、結局、相手の未来に期待することと一緒で、その期待を現実にするものだと思う。

そこで見落とされがちなのが、教育者も、研究者も、実は成長する要素があるということ。仕事でやっているなら、成果をだして当たり前。講師なら生徒の成績が上がるのは「当たり前」の仕事であるし、研究者なら、研究活動をするのは「当たり前」。でもその上で、何か付加価値を生み出せたら、それは嬉しい。

残念ながら、今の教育機関は、奴隷のように講師や研究者を扱っている要素は否めない。とはいえ、そういう環境だからこそ、成長できた面もある。まあ、流石に給与払えない仕事場はやばいけど(実は横浜の予備校を辞めたのは、給与未払いがあったからである)、そんなのは稀で、笑。もっと人間として成長できたら良いと思う所存です。

『一流の仕事人は、一流の人格者。仕事には仕事で返すのが一流』

かつて、お世話になっていた英語の先生の言葉である。その先生は文法書も出版された。普通、文法書は大学教授の研究の集大成として書かれることが多い。まさに、英語講師という仕事を超えたのだ。そういう憧れの先生に今後は自分がなるべく(僕は辞書を作りたい)、今日も論文を書く。教材も書く。そんな生活を送る。もちろん、ブログも書く。発信は楽しいから。

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