①苫小牧を離れる時
苫小牧から帰るときは、必ず放心状態になる。
友達と離れてしまうからだ。
神奈川に住んでいた頃は、空港まで送って行く最中、放心状態だった。しかし、今、僕が札幌に住むことになって、その友達は僕を苫小牧駅で下ろすようになった。友達の車が苫小牧駅に着くにつれて抜け殻の状態になって行くのだ。それは避けられないというか、毎回経験する通過儀礼のようなものである。なぜ、僕は放心状態になってしまうのだろうか。
②抜け殻と表現した友達
友達は、その放心状態のことを「抜け殻」と表現した。そして「俺と別れのタイミングで抜け殻になっている」と言われた。それは確かなことだ。
苫小牧に行くのは込み上げてくるものがあるほど、素晴らしいのである。電車が苫小牧に着くとき、友達に会えるという感動のようなものが込み上げてくる。友達。もう関わって、15年になる友達のことだ。札幌に住んでいる僕は、苫小牧から帰るとき必然的に離れ離れになる。
それがなんとも言えず悔しくて悲しい。なぜ悲しくなるのか。日常に何も楽しみがないのだろうか。とにかく、帰りの電車の中では、ずっと外を見上げてしまいたくない。ひたすら、それを忘れるように作業する。
しかし、それができるかわからないし、できたとしても、それは恵まれない未来かもしれない。現状、文系博士というのは、リスペクトすらされないどころか趣味を極めたただの役に立たない人という認識しかされないような感じがする。
もっと自分のしている研究が世の中の役に立てばいいのだが、まだそんな兆しもないのだ。よって、僕は趣味追い人のような感じになっている。もっと、現実の世界では、とき何本は緩やかに過ぎているということを実感したい。それは僕にとって、何よりも大事なことなのだと思っている。
③抜け殻になるのは何故だろう?
さて、元の話に戻ろう。なぜ、僕が抜け殻になってしまうのかという話に戻りたい。抜け殻になるというのは「友達と離れて寂しい」という感情が表立って出ている感じがすると述べた。確かにそれは事実なのだが、友達は特に僕と別れることについて抜け殻になっている様子がない。
僕ならできない作業を平然としてやりすぎしてしまう姿にはただただ感動しかない。それはまるで修行僧のようだ。しかし、彼はそんな毎日を楽しいと言っている。
僕は時間を拘束されない、いわゆる自由業である。ワクワクする時にたくさん仕事をすれば、それなりに金は入ってくる。そういう恵まれた立場にいながら、仕事に対して全くもって、ワクワクしない時期もあるのだ。それは贅沢であるように思う。
試しに、自分の中で「仕事楽しい」と言ってみる。いわゆる「外発的な動機づけ」ではなく「内発的な半ば無理やりの動機づけ」という感じだ。そうしたら、マイナスのようになっていた気持ちが少しだけ上向きになってきたのを感じた。
そう思うと、気が楽になってきたのだ。今の自分の仕事を精一杯頑張りたい。今の自分に与えられた仕事で、期待以上の成果を出したい。そう思うと、頑張れる。
今の自分の仕事とはなんだろうか。研究・教育・英語だ。研究では、どんどん論文を出していきたい。教育ではどんどん生徒を担当したい。
仕事は楽しい。仕事は楽しい。仕事は楽しい。
そう言ってみるだけでも、初心が思い浮かぶ。
学部3年生の頃のこと。勉強が楽しくて仕方なかった。研究することも楽しくて仕方なかった。あの時を思い出す。あの時くらいにキラキラしていたいなあ。そう思う。それが人間にとって、心の若さを保つ方法なのだということも学んだ。それは人間としてとても大事なことのように思う。
④いつも心にワクワクを
僕の中でスローガンにでもしようと思う。
確かに、友達と別れるのはしんどい。しかし、それを覆すかのように素敵な未来が待っているのだ。個人のちょっとした考え方で、抜け殻が変わってくるならば、いつだって楽しい考えで埋め尽くそうではないか。
そういうことです、同じことであっても、事実は変わらないけれども、解釈なら変えようがあるということですねえ。ならば、解釈を変えたいと思います。大事なのは、事実と解釈を分けて考えることです。
それはとても大事なことのように思います。仕事というのは、論文を書かなければいけにとか色々とあります。また、指導教材についても書かなければいけません。それを頑張ってやって行くのではなく、顔腫っていくこと。
熱狂することは大事です。では、僕は今、最も熱狂できることはなんでしょうか。それは、研究であり、教育であり、英語の勉強です。それはとても僕の体の中に刻み込まれたかのように狂って、暴れています。人生というのはいかに3歳児になれるか(言っておきますが、これは「バブー」と言いながら過ごすのではありません)ということの勝負であるように思います。
本能的に偏愛して、それに熱狂する。労働というのは、今、働き方改革が行われています。何時から何時という感じで、労働時間が決められている傾向がある。しかし好きでやっている人の仕事がそうやって制限される世の中は少しおかしいと思います。最後までやる粘り強さも大事ですねえ。
⑤偏愛して、熱狂する
例えば、僕は人間の持つ多義性の解明に熱狂しています。人って2つ以上の意味を持つ言葉をどうやって処理しているのか、ということに強い強い、偏愛にも近い興味があります。ならば、それを追求するのも良いと思います。
例えば、教育では、どうやって人はやる気スイッチをつけて、勉強するのだろうと思います。だから、僕はいくらだってそのことに偏愛して、解決策を追求するのです。バランスなんて考えない。ひたすら熱狂することが大事であると考えます。
そこに異常なまでの情熱を注げないで、仕事したとはいうなという感じになってきます。さて、仕事と言いましたが、それはプライベートでも同じような考えです。最も、僕のように往来ベートという概念がない人もいます。プライベートでもつまらないつまらないと言っていては、いつまで経っても抜けない出来レースを歩いているのと同様です。
⑥とにかく駆け抜けることが大事
もっと先のどんなことになるかわからない未来を見てみたいです。それは面白そうな未来ではないでしょうか。そういう未来を一緒に叶えられたら、それはもう本当に嬉しいことです。今、やっていること、今、できることに偏愛して、熱狂して、ベストを尽くす。これが僕の仕事になります。
それは生きる上でも大事な概念になってきます。楽しい!ということを肌で実感するのではなく、心で実感することが素晴らしいです。ちょっとした心掛けでも、世の中の見え方は随分と変わってくるのです。
苫小牧を出発した電車は新札幌に到着しようとしています。
もう札幌の中心部に入ったということを意味します。
あと、仕事を経験して、社会貢献ができるということも素晴らしいです。仕事という媒体を通じて、人は社会貢献をすることができます。僕はそこまで社会貢献だとかそういうことを考えて生きてはいませんがそれなりの意地は持っていたいと思います。人がもっと楽しく仕事をすれば、もっと楽しい社会になるのにとまで思っています。
こうして、今、書いてみて、抜け殻から抜け出せたどころか、また明日から仕事が楽しく、日常生活が楽しくなるなあという確信を得ることができましたので、明日からも頑張っていきたいと思います。いや、頑張って、ではないですね、楽しんで熱狂して生きていきたいと思います。
⑦まとめ
以上になります。
もうすぐ電車は札幌に着いて、日常生活が始まります。
結局、苫小牧から休まず書いていて、5000字を生産することができました。日々、自分の楽しめることに対して、偏愛して、熱狂して生きていきたいと思います。大丈夫。僕の未来はきっと明るい。これからも人生を楽しく生きていけそうです。北海道という北の大地に住んで1年。やっと自分との付き合い方を学んだ気がします。1日の残りの時間も使い切ります。
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