誕生日を迎えて、改めて気分を変えたいと思う

誕生日を迎えた。あと1年後に、30歳になります。なので、今日は29歳の誕生日。29歳になりました。20歳になった時には、何も感じなかったけれども、いよいよ29歳かと思うと、色々思うところがあります。

自分がどこで幸せを感じるのか。それを分析して、メモしておく。ああ、こういう時にボクは幸せを感じるんだな。とか。こういうときに嫌だと感じるんだな、とか。色々と書いて、メモしておきました。

そうすると、2つのことが浮かび上がってきました。

1:仕事で「幸せ」を自己生成できていた

1つ目。
ボクは、幸せを「仕事」で感じられるということです。

おそらく、幸せというのは、種類があると思っていました。そんなことを調べていたら、ある精神科医の方が著書で幸せには種類があると書かれていました。「セロトニン的幸福」「オキシトシン的幸福」「ドーパミン的幸福」の3種類があるらしい。以下、それぞれ分類して説明していきます。

セロトニン的幸福:
人として、衣食住が整っている状態。「この食べ物美味しいな」とか、朝カーテンを開けて「太陽の光が気持ちいい」と感じた時に、この「セロトニン的幸福」が得られるとしている。

オキシトシン的幸福:
オキシトシン。人と触れ合うことで分泌されるホルモンのこと。つまり恋人とか、友達とかと関わっている時に「楽しい」と思うなら、オキシトシン的幸福が出ていると言える。

ドーパミン的幸福:
仕事で何かを成し解けた時などに感じるホルモンのこと。仕事ができて「できた!よっしゃ!」と思う時に感じる幸せのこと。

幸せの種類

話を戻します。ボクは仕事で幸せを比較的多く感じます。少なくとも、自分の友達よりは多く感じています。それどころか「自分の仕事は世界の教育を変えるんだ」とまで思っています。幸せを自己生成していると言ってもいいでしょう。上でいう「ドーパミン的幸福」は大袈裟に言わなくても、毎日感じます。

オキシトシン的幸福。友達としか関わっていないので、新しい人間関係が希薄なところはあります。よって、オキシトシン的な幸福はあまり感じないですね。友達と意見が対立することもあるが、最後は分かり合えています。そんな時にむしろ感じる。しかし、新しい人間関係を味わってみるのも良いなと思います。

セロトニン的幸福。これは、、、いま、ぼくが最も感じなければいけないものだろう。美味しいものでも食べにいこう。そういえば、仕事漬けでした。

あまり不自由していないのですが、特に最も幸せを感じられるのは、仕事で何かを成し遂げた時。例えば、ラボで1日ずっと論文を書こうと思って、本当にそれができた時。など。ドーパミン的幸福は自己生成している自信があります。今後とも、そうすることができれば、嬉しく思います。

2:「当たり前」はただの「感想」

さて、2つ目。
自分の殻を破ることができたこと。

昨日、自分のFacebookに書いた記事を引用します。

28歳で学んだのは「人それぞれ」という5文字の、でも5文字でも大事なことでした。授業1つとっても「わかりやすい授業をすることが大事」と思う人もいれば「わかりやすい、は当たり前」という人もいれば「生徒アンケートで満点が来るのは当たり前」という人もいれば「授業?そんなのに労力を使うなよ笑」という人もいます(良い意味での「労力使うなよ」です)。

同じ「授業」1つとっても、見えている景色が違うのです。

そこで一律の価値基準って通用しない。確かに、ボク自身も「授業はできて当然」という価値観を持っています。でも、それはボクの価値基準であるので。世の中には授業に苦心されている先生もいます。そういう先生に「いやいや、授業ってできて当たり前だからね」と言うのは、なんだろう、あまり良い光景ではないと思う。

今、ボクは「授業」という例を取りました。何が言いたいかというと、人それぞれの生き方の中に「仕事」というのがある。どんな仕事をしようと、価値観を押し付けるのはよくないということです。当たり前に見えて、これまであまりボクの頭には根付いていない概念でした。

だからこそ、同じような価値観を持った人を中心に、自分を高めていく。そういう生き方があってもいいと思います。あくまでも人それぞれです。

『人には人の価値基準や、生き方があって、それを否定しても何もすることはできない』

そう「自分の中の当たり前」を1つだけでも、排除することができてきたのです。それは一つの大きな変化です。一律の価値基準で判断できるほど、世の中は単純ではないのです。よく「人は分かり合えない」と言われます。確かに、人は分かり合えない。わかるという前提で話す方が間違いです。でもだからこそ、分かり合えた時の喜びは大きいですね。

当たり前というのは、ただの感想でしかありません。上の例でいうと、確かに「授業はできて当然」という価値観を持っていますが、それを全ての先生に押し付けなくなったこと。それは大きな進歩だと思います。個人的に。

3:最後に

以上語ってきました。28歳になったときは、まだ歳をとるということにあまり実感が湧きませんでしたが、29歳になって、改めて考えてみると、少なくとも、昨年よりは敏感になりました。幸せを今度は、人間関係で生成できたら(自分で人間関係の幸せの閾値を低くすることができたら)いいなあと思います。その方が嬉しいですからね。

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